栄光と悲劇の山-アンナプルナ-をみて想い起こしたこと(2024年1月に医師会報に掲載されました。)
栄光と悲劇の山-アンナプルナ-をみて想い起こしたこと
2023年2月にBSでアンナプルナのドキュメンタリーが放送されていた。最後の方に群馬県山岳連盟登山隊の冬季アンナプルナⅠ峰の登頂場面が出ていた。そこには当時、最強の登山家と言われた山田昇氏と一緒に頂上に立つ、群馬大学生、小林俊之君が映っていた。トランシーバーで隊長に何度も礼を言う姿が印象的であった。
話は昭和59年12月に遡る。自分は富山医科薬科大学の4年生であり社会人山岳会に所属し早月尾根からの冬の剱岳登頂を狙っていた。小林君も群馬の社会人山岳会にはいり、同じルートでの登頂を計画していた。県は違うが親交のある山岳会どうしで1月1日に同時にアタックするも時間切れで途中の伝蔵小屋に一旦戻った。翌日、再度アタックをかけ、無事登頂し両隊とも麓の馬場島まで一気に下山した。そこで共に大学生で社会人山岳会に所属している小林君と意気投合し、お互い切磋琢磨し必ずヒマラヤに行こうと誓いあった。自分は大学5年になる3月に同じルートから剱岳に登頂し4月に小窓尾根、6月に東大谷中尾根、8月には源次郎Ⅰ峰の側壁など剱でも難しいとされるルートを数多く登った。しかし一連の登山の中で、間一髪で巨大な落石の直撃を免れたり、ハーケンが抜けオーバーハングで宙吊りになったり、目前で登山者が谷底に落ちていく遭難現場に出くわしたりし、メンタル的に燃え尽きてしまった。その後、臨床実習が始まり、普通の医学生に戻った。一方、小林君は遭難で有名な谷川岳で修練を積み、翌年エベレストに遠征し、さらにアンナプルナのサミッターになったものの下山時に滑落し行方不明になった。
彼との約束から15年、自分にもヒマラヤ行きのチャンスが回ってきた。山はカラコルムの名峰マッシャーブルム7821mだった。当然ながらぜひ行けと励ますのは山仲間だけで、自分は当時泌尿器科の医局長であったので最大の難関は学内で最も厳しいとされるF教授と家内をどう説得するかであった。教授には高所医学の研究を兼ねますからと懇願し、家内にはヒマラヤで山は終わりにするからと一筆を書いた。家内には数か所の占い師の元に連れていかれ無事帰れるか占ってもらったが自分は無事だが遭難者が出ると予言された。それでも遠征に参加することができ、無酸素で6500mまで登り、さらに現地住民に対する医療活動を経験することができた。果てしなく広がるヒマラヤの峰々は今でも脳裏に焼き付いている。帰国後、同じ山に登る予定であった九州の登山隊の3名が雪崩で死亡のニュースが流れた。彼らは山を急遽変更し、そこでの遭難であった。占い師の予言は当たった。また教授と約束した研究は隊員に協力してもらい、(高所登山の造精機能に及ぼす影響)のタイトルで英文論文を書き上げ、その論文により2004年度日本登山医学会学術集会で奨励賞を受賞することができた。
遠征から25年、必ずヒマラヤに行こうと誓いあった小林君は山で亡くなってしまったが、自分にとって山は生きがいであり、自身の体力に見合った登山を続けながら診療に励みたいと思う。